デジタル人材の育成
公開日:2026年6月29日
匂いをコンピュータ上で保存・再現する技術は、視覚・聴覚情報のデジタル化が高度に進展した現在においても、なお発展途上にある。嗅覚は、鼻腔内の嗅覚受容体と匂い物質との結合によって成立するが、ヒトは約400種類の嗅覚受容体を持ち、その数は他感覚の受容体と比べ突出して多い。加えて、匂いの提示・制御においては、残香や嗅覚疲労といった固有の課題が存在し、視覚・聴覚のような汎用的デジタルインタフェースの実現を困難にしている。
本プロジェクトでは、嗅覚の生理学的特性および運用上の制約を踏まえ、匂いの保存・再現を可能とする嗅覚デジタルインタフェースの確立を目指す。技術的独自性は、ガスセンサにより取得した匂い情報を、ヒトの嗅覚受容体に対応する約400次元の嗅覚空間ベクトルとして記述・保存し、これを数十種類規模の香料の混合パターンへ変換して再現する点にある。あわせて、超音波霧化素子のパルス制御および強制排気機構を備えた匂い提示デバイスの開発、ならびに嗅覚疲労の抑制を目的とした匂いの微小変動アルゴリズムの実装を行う。
これらの要素技術を統合した中間成果物として、嗅覚情報を保存し、任意の時間・場所で再現可能にする「香りカメラ」を開発する。さらに、プロジェクト後半においては、嗅覚体験の大きな個人差、匂いが自律神経系・内分泌系に及ぼす影響、嗅覚と記憶・情動との密接な関連性に着目し、応用プロダクト群の開発を通じて、嗅覚デジタルインタフェースの実用可能性および事業展開可能性を検証する。
ヒトとコンピュータのインタフェースは、これまで主に視覚、聴覚、触覚を基盤として発展してきた。本プロジェクトは、嗅覚を介した新たなヒューマン・コンピュータ・インタラクションを医学と情報学の融合により実現し、次世代インタフェース技術の創出を図るものである。
本提案は、嗅覚をヒト–コンピュータ間の新しいインタフェースとして捉え直し、香りを用いてユーザの心身状態へ静かに働きかけることを目指す、非常に独自性のある提案である。視覚・聴覚・触覚に比べて、嗅覚はコンピュータとの接点がまだ十分に開拓されていない感覚チャネルであり、そこに正面から取り組もうとしている点に大きな魅力がある。特に、匂いが情動や記憶と深く結びつくという生理学的特徴を踏まえ、香りを単なるアロマではなく、情報提示や生体状態への介入に用いる「静かなインタフェース」として位置づけている点が興味深い。
技術的にも、残香や嗅覚疲労といった嗅覚インタフェース固有の課題に対して、逆相空気流による排気機構、ミリ秒単位のパルス制御、刺激の「ゆらぎ」による順応回避などを組み合わせようとしている点に工夫が見られる。また、香りセンサ、嗅覚受容体空間、ディフューザ出力をつなぐマッピングを構築しようとする発想は、香りを高精度な入出力対象として扱うための基盤技術になり得る。嗅覚は個人差が大きく、同じ匂いでも人によって感じ方や生理反応が異なるため、個人ごとの香り体験の最適化を含む構想は、本提案の中でも特に核になると感じた。
提案者は未踏ジュニアでの経験を経て、医学部に進み、医学的知見も踏まえてこのテーマに再挑戦しており、香りに対する造詣やプロジェクトへのこだわりが感じられる。嗅覚という未開拓の感覚チャネルに対して、ハードウェア、数理モデル、生体信号解析、個人最適化を組み合わせて挑戦する姿勢は未踏事業に相応しいものである。まずは高解像度な香り制御の目的と実証対象を絞り、確実に動くプロトタイプによって可能性を示すことで、香りをコンピュータの新しい出力ポートとして開拓するプロジェクトへ発展することを期待して採択した。
2026年6月29日
2026年度採択プロジェクト概要(糸井PJ)を掲載しました。