社会・産業のデジタル変革
執筆:鷲見 拓哉 2020年6月30日
量子コンピューティングの進展は、量子コンピューティングベンダだけが推し進めるものではない。ユーザとなる各企業も技術進展を捉え、自社ビジネスへの影響を見極めていくことが重要である。量子コンピューティングの導入検討を進めるためには、この新しいテクノロジーを理解、実践し、技術進展の程度に合わせて臨機応変に取り組んでいくことが求められる。先進的な企業の事例を踏まえ、量子コンピューティングの導入準備の方法を考える。
金融業界のように量子コンピューティングの具体的な適用方法(例えば、金融商品の価格決定を量子コンピュータ上で高速に行う方法)が明らかとなっている場合は個社でその導入を進めることも可能であろう。しかし、適用方法が明らかでない場合は、まず活用先業務の検討(アプリケーション探索)から始め、その次に具体的な適用方法を研究しなければならない。アプリケーション探索はより広い発想と投資が必要とされ、個社では限界がある可能性もある。
実用的な量子コンピュータが利用可能となっていない現時点では、量子コンピューティングを活用した企業活動は他社との競争に発展する前の段階にあるという状況も相まって、本来は競合関係にある企業同士であっても、量子コンピューティングの可能性に期待しつつも単独よりもコラボレーションが有効と感じる企業たちがコンソーシアムを組成し、情報収集やアプリケーション探索を共同して推進しようとする動きがある。
このようなコンソーシアムとしては、2019年に設立され、17社のライフサイエンス企業が参画する「QuPharm」がある。このコンソーシアムでは、ワークショップ、エコシステム調査等を通じて、業界が抱える共通の課題に対する量子コンピューティングの適用方法を探っている。「QuPharm」創設メンバーであるBayer(独)のKevin Hua氏は、この取組に関して「量子コンピューティングは新しいテクノロジーであるため、投資に伴うリスクは依然として高い。製薬企業は、連携することによって、投資リスクと利益の両方を共有し、ライフサイエンス産業へのこのテクノロジーの導入を加速することができる。」と競合企業との協調の重要性を評価している[6]。
量子コンピューティングは、対象とする業界や業務によって求めるハードウェア特性や規模が大きく異なるという特徴があるため、同一業界の企業から構成されるコンソーシアムでは、各参画企業の時間軸が揃うことで必要な情報を効率的に獲得し、なおかつ投資に対するリスクを分散させながら、困難なアプリケーション探索に立ち向かうことができるようになる。
現在実現されている小規模な量子コンピュータでは、実問題を想定し単純化した問題しか解けていない。このため、自社ビジネスの問題を解くのに量子コンピューティングが有効になり得ると判断した企業は、実験的に導入し、自社の有するデータでその効果の発現を試すところまで踏み込む必要がある。そのためには大きな問題を分解したり、他の方法も組み合わせたりするなど多角的に対応しなければ、自社ビジネスにおける意味合いを正確に分析、理解することはできない。
量子コンピューティングのハードウェアは多様であり全てを対象に試行することは現実的でないが、量子ソフトウェア企業との協業でこれを効率的に試すことができる。例えば、量子ソフトウェア企業のZapata Computing(米)は、量子コンピューティングの手法を産業分野ごとにパッケージ化して提供し、各種ハードウェアにも対応している。これは、Zapata Computingが各ベンダと協業し、同社の提供するソフトウェアがミドルウェアとして動作することで実現されている。また、1Qbit(加)も各種ハードウェアに対応する量子コンピューティング環境を提供し、化学メーカーのThe Dow Chemical Company(米)や医薬品メーカーのBiogen(米)が利用している。
利用可能な量子コンピュータの性能が自社目的に対して不十分であっても、取り組めることはある。先に紹介したノヴァ・スコシア銀行とモントリオール銀行の事例では、実際の量子コンピュータではなく、シミュレータを利用している。これら2銀行は、量子ソフトウェア企業との協業により、シミュレータを利用して、業務上の計算を量子コンピュータで処理できる形に変換する方法を理解するだけでなく、その運用に携わる人員の教育までを、実用的な量子コンピュータが登場するまでの準備として進めていることになる。また、Fordは、量子コンピューティングの可能性を探り始めた当初は、量子アニーラを用いて量子コンピューティングを学んでいたが、現在はMicrosoft等と組んで、古典コンピュータを用いる量子インスパイアード古典アルゴリズムまで検討の幅を広げている[7]。これは、実際に量子アニーラを利用し、量子コンピュータのハードウェアの未成熟さを理解した同社だからこそ、短期的な戦略として、量子インスパイアード古典アルゴリズムの活用に舵を切ることができた事例といえる。
企業は、量子コンピューティングという、古典コンピューティングとは全く異なるテクノロジーがもたらすとされる高速計算への期待と、現在の量子コンピューティングがもつ不確実性とうまく付き合っていくためにも、まずは、情報への投資を通じて状況を正しく理解し、それに応じて、必要な人材の獲得・教育を進め、量子コンピュータの実機とシミュレータを使い分けるなどして、量子コンピューティングの技術進展が自社ビジネスに与える影響を正しく分析することが重要である。その上で具体的な行動計画を組織的に策定し、技術進展の程度に合わせて臨機応変に戦略を修正するなど、実用的な量子コンピュータが登場したときにいち早く利用を開始できるよう今から準備を進めておく必要があるだろう。
IPA 総務企画部 調査分析室
2023年7月20日
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