デジタル人材の育成

学びのススメ vol.10

学び続けている実践者の方からお話を伺いました。
ご自身の組織や個人としての学びのご参考になれば幸いです。

vol.10 安田登 氏

安田登 氏

能楽師(ワキ方下掛宝生流)。全国各地の舞台出演や海外での公演も行う。また、神話『イナンナの冥界下り(シュメール語)』でのヨーロッパ公演や、金沢21世紀美術館の委嘱依頼による『天守物語(泉鏡花)』の上演、島根の神楽を取り入れた『芸能開闢古事記』など、能・音楽・朗読を融合させた舞台を数多く創作、出演する。
100分de名著『平家物語』(NHK)講師・朗読。
著書:『野の古典』(紀伊國屋書店)、『身体感覚で『論語』を読みなおす。』、『能 650年続いた仕掛けとは』(ともに新潮社)、『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』『イナンナの冥界下り』(ともにミシマ社)など多数。
関西大学特任教授(総合情報学部)。

Q:安田さんのように学び続けたいと後輩等に言われたら、何が大切だと伝えますか。

学ぶための敷居を低くすることです。難しいことにぶつかり挫折しそうになったら、その障壁を取り除く工夫をします。以前、私が中小企業診断士の勉強を始めた時、能楽師なのでビジネスというものがまったく理解できませんでした。そのため、ビジネスを扱っている映画を洋画・邦画問わずに見るというところから始めました。そこから、漫画や小説、ビジネス書と学びを進めていき理解することができました。外堀から埋めていくように、敷居を低くして学びやすくする工夫が必要だと思います。

Q:学び方について教えてください。

教材と自分との相性を考えています。わからないと思ったり、飽きてしまったりするのは、教材が悪い訳でもなく、自分が悪い訳でもなく、ただ相性が悪いだけです。過去にヘブライ語の勉強をした時に、日本語の教材ではなかなか理解できなかったものが、英語の教材だと理解しやすかったということがありました。また、能の先生から、「謡(詞章)を覚えるには100回謡えばいい」といわれました。しかし、私は100回謡っても覚えられませんでした。ところがある方法で書いてみると、一回で80パーセント覚えられました。言われた方法でできないということは、そのやり方が自分には合っていないということです。そのときに、自分なりのやり方を探すことが大切です。ただし、言われたことをまずはやってみるというのも大事だと思っています。

Q:学ぶときに気をつけていることはありますか?

何か新しいものを学ぶときは、自分の方法を見つけるのにちゃんと時間を取るということです。多くの人がそれをせずに学びを始めてしまいます。また、学びの途中でも行き詰まったと感じた瞬間に、学びを一度止めて、それを探す時間を取るようにしています。ときにはこれに3日間ぐらいかける場合もあります。このように自分の方法をアップデートしていく中で、全く新しい方法ができる場合もあります。

Q:学びにおけるご自身の特性はどのようなものだと感じていますか。

行動力だと思っています。イタリアの心理学者の書いたものを何冊か読み、直接お話を伺いたいと思い、メールをして会いに行ったりしましたし、大英博物館のキュレーターにメールを書いて会いに行ったりもしました。自分にとって行動力は非常に重要ですし、これがなくなったら自分はまったくダメだと思っています。それは、私の卒業した中学が高校進学率40%を切るようなところで、高校時代の最初の中間テストの時に、学年で後ろから2番目でした。これはかなりショックで、このままではダメだと気づきましたが、親は子どもの勉強に興味がなく、参考書も自分で買え、塾もダメという状況でした。私に残されたのは行動力だけでした。自ら行動して、いろいろな友人に教えてもらいながら成績を上げていきました。
また、行動し始めると次の行動が楽になります。まさに行動が行動を生む状況です。何かを学び始めると楽しいことが増え、あれもやりたいこれもやりたいということが広がります。世の中には面白いものがありすぎて、学ばざるを得ないと思っています。

Q:学びにおいて大切にしている時間はありますか?

何もしない時間を大切にしています。一人で考えることができる時間はすごく大事です。その時間がないと何も生まれません。空虚ができると何かが入って来る余地もできますし、そこから何かが現れ出る可能性もできます。そのため、常日頃からなるべく時間をいっぱいいっぱいにしないように心掛けています。暇な時間を埋めようとする人がいますが、あえて暇な時間を作ることが大切なのです。
また、私自身は能動的に行動することも多いのですが、時には意識的に「何もしないことをする」という時間を取るようにしています。
これは人との関係でもそうです。例えば、誰かに問いを投げかけた時に、相手が考えている場合はほんの少しでも口をはさみません。そこにある無言が、「無」なのか「間」なのか。仮に「間」であれば、何分かかっても、いや一時間でも何もしないことが大切です。
先日、ある方と対談をしたときに、どちらかの問いにふたりとも考え込んでしまい、10分ほど経ったときに「あ、お客さんがいた」と気づきました。このような時に司会の方などがいると、話を埋めようとしますが、この「間」というのは大切だと思っています。

Q:安田さんにとって学びに影響を与えたエピソードはありますか?

学びに興味を持つきっかけとなった出来事が高校時代に2つありました。1つ目は、ハンググライダーの製作です。当時、日本自作航空機協会に所属していたのですが、NASAからハンググライダーの設計図を輸入してもらいました。それを基に竹とナイロンタフタ、それからいくつかの金具で実際に製作を行いました。たった1枚の紙と数枚の説明書を基にしたハンググライダーが空を飛んだということが驚きでした。2つ目は、ロックバンドをやっていたのですが、オーケストラとコラボすることになり、オーケストラ用に自分達の曲を編曲する必要がありました。本から編曲やオーケストレーションを学び、作成したものをスコアとして渡すと、自分達が考えたものがオーケストラからすごい音で出てきて、本ってすごいと感じました。このような出来事から、学びと、そして本というものに興味を持ち始めました。

Q:安田さんは語学を多く学ばれているとお聞きしましたが、それはなぜですか?

芋づる式な学びと言えます。『言語』という雑誌で「神話する身体」という連載をして、後に書籍化の話が出ました。しかし、私は古事記しか原文で神話を読んだことがないと気づいた時に、ギリシャ神話を読もうとギリシャ語を学び始めました。ギリシャ語を学んだら新約聖書を読めます。そうなると、旧約聖書が読みたくなってヘブライ語を学び始めました。ヘブライ語の前の時代はアッカド語、その前はシュメール語というように芋づる式で学びました。仏教の方からサンスクリット語を学んだりもしました。
これらは原典をちゃんと読んだ方が良いと思ってのことです。私は研究者ではないので、論語の研究者が研究したことよりも論語そのものに興味がある。聖書もそうですし、仏典もそうです。原典に立ち返った方が自分にしっくりくることもあります。

Q:「三流のすすめ」という本を書かれていますが、三流というのは?

「三流のすすめ」のベースになったのは『人物志』という中国三国時代に書かれた本です。この中で、1つのことを専門にしているのが一流、2つのことを専門にしているのが二流であり、このような人に国を任せてはいけないと書かれています。例えば、法律家に国を任せると、その人は法以外のことをダメだと思ってしまい、偏狭な国家になります。国を任せるのは3つ以上の専門を持つ三流の人が良く、そうしないと視点が狭い範囲に固定されてしまいます。日本はいつの間にか1つのことをやる一途な人が良いという風になってしまっていますが、もともと日本人は色んなことをやるのが得意な民族でした。一流の人から見ると、色んなことをやっているのは悪い意味の三流に見えるかもしれませんが、どんどん次の専門に進んでいくことを皆さんに勧めたいと思っています。

Q:学びにおいてやってみたいことはありますか?

費用など気にしなくてよいなら、三日坊主学校をやってみたいと思っています。3日あれば、プログラミングやダイビング、飛行機の操縦等、その分野の簡単なことはできます。それを3日間ずつ1年間で100個やってみる。そうするとやりたいことが見えてきます。これを思いついたのが、引きこもりの人たちと話した時でした。何をしたいかわからないと言うので、今まで何をしたのか聞くとそれほど多くの経験をしていない人たちがほとんどでした。色んなことを実際に経験しているうちに、何をしたいのかが浮き上がって来るのではないかと思っています。むろん、それも三流、色々あっていいのですが。
私自身でやっていることとして、本屋において興味のない棚をなくそうとしています。私が最も興味がなかった棚が料理でした。しかし、料理に興味を持つことで、いまは料理家の方とつながっています。あえて興味がないところに行くことが大切だと感じています。

Q:安田さんにとって学びとは?

基本的に学びとは、旧字体の漢字(學)が表す通り、手足で他者の真似をすることです。私にとっての学びは、基本は身体です。能もむろんそうですし、プログラミングも身体、指で行っています。プログラミングだけではありません。思考そのものが、紙に文字を書いたり、パソコンを打ったりすることによって指から出ているのです。そういう意味で、あらゆる思考は身体的です。人はかなりデジタル*になってきていると言えます。
(*ちなみに、デジタルの語源digitとは「指、指先」という意味であり、まさに身体を指します。)