デジタル人材の育成
学び続けている実践者の方からお話を伺いました。
ご自身の組織や個人としての学びのご参考になれば幸いです。
読書猿 氏
ブログ「読書猿 Classic: between/beyond readers」主宰。
「読書猿」を名乗っているが、幼い頃から読書が大の苦手で、本を読んでも集中が切れるまでに20分かからず、1冊を読み終えるのに5年くらいかかっていた。自分自身の苦手克服と学びの共有を兼ねて、1997年からインターネットでの発信(メルマガ)を開始。
2008年にブログ「読書猿Classic」を開設。ギリシア時代の古典から最新の論文、個人のTwitterの投稿まで、先人たちが残してきたありとあらゆる知を「独学者の道具箱」「語学の道具箱」「探しものの道具箱」などカテゴリごとにまとめ、独自の視点で紹介し、人気を博す。現在も昼間はいち組織人として働きながら、朝夕の通勤時間と土日を利用して独学に励んでいる。『アイデア大全』『問題解決大全』(共にフォレスト出版)はロングセラーとなっており、主婦から学生、学者まで幅広い層から支持を得ている。
『独学大全』は3冊目にして読書猿の真骨頂である「独学」をテーマにした主著。なお、「大全」のタイトルはトマス・アクィナスの『神学大全』(Summa Theologiae)のように、当該分野の知識全体を注釈し、総合的に組織した上で、初学者が学ぶことができる書物となることを願ってつけたもの。
当たり前ですが続けることです。世の中、How to本というジャンルがあるように、やり方に注目する人が多いと思うんですが、どんなに良い方法も続かなければ、何の成果も得られない。なので『独学大全』の第一部を丸ごとつかって、始め方・続け方について書きました。学ぶというのは、その人が変わっていくことですけど、学び続けていけば、学ぶ対象も変わりますし、学び方も変わっていく。でないと、そもそも学び続けていけない。やり方というのは、こうして学ぶ中で変わっていくもの、そうやって見つけていくものなんだと思います。なので、続けることが学びにとって一番大切です。
若い頃の自分に対してどうアドバイスするか、という問いに置き換えてお答えすると「軽やかに挫折して、軽やかに立ち上がる」ことが大切だと伝えたいです。若い頃の自分は頭が固く、一旦決めた計画にこだわって、計画通りにできないと自分のせいだと思い、悪い循環に入っていました。今から振り返ると、ダメならダメでいいじゃないかと思いますね。さっさと失敗して、さっさと立ち直る。その方が、トータルで見ると学ぶ時間が増えるし、貴重な学習機会も得られる。
というのは、失敗というのは、他からは得難い、最も学びがいのある学習教材なんですよ。何しろ自分独自のものだし、他人が考えた学習法や学習科学なども「自分の失敗」というフィルターを通してみると理解しやすいし、アレンジもできる。
自分の恥ずかしい例を出すと、私はアラビア語やギリシア語などの語学を8~9個ぐらい挑戦して、全部挫折しました。今は笑っていますが、性懲りもなくまたチャレンジすると思います。一回転んだからと言って、一生勉強できない体になるわけじゃなし、あきらめる必要はない。何かのきっかけでまた学び始めるかもしれない。その可能性を捨てることはない。だって独学はいつだって始められるんですから。
逆説的に聞こえるかもしれませんが、さっさと挫折した方が、むしろ続けられる。失敗は、どこで無理をしたのか、どうすればうまくいきそうか等、多くのことを教えてくれる。挫折して再開した分、学びについて賢くなれる。続けるために、転んでみることも重要なのです。
特徴は記録(ログ)を取ることでしょうか。何をやったのか、やれてないのか、事実を可視化しています。例えば、今日は何ページ進んだなどの事実のみを淡々と書いていくわけです。「1分だけでもできたらOK」というようにハードルを下げて記録することで、サボり魔な自分でも「案外やれてる」「こんなにできた」という証拠が積み重なるので、自己肯定感の基礎になります。
また、記録した事実に対して、再考してメタレベルで書くメタノートを作成しています。やっている最中は自分自身が見えづらいので、記録(ログ)をもとに、やったことがどうだったのか、メタ認知して考え直すことをやっています。一旦自分と切り離して、文字として客体化したものに対して、別のタイミングで注釈をつける作業です。注釈は人文科学の技術ですが、それを自分を対象に使っています。そのようにして書き留めていった記録(ログ)とメタノートが発展して『独学大全』になったと言えます。
続けることが大前提ですが、ある程度まで学ぶと、自分の学び方を作ることになります。最初は誰かの学び方を参考にしてもちろん良いんですが、学んでいるうちに、自分の水準と状況に合わせてチューニングしないと上手くいかなくなるんですね。
学ぶなかで自分が変わっていくと、元々のやり方が効率的でなくなったり、合わなくなったりしていく。大抵の人は途中でやめてしまうので、学ぶ人全員がこのレベルに達する訳ではありませんが、ある程度学んだ人には必ずこの課題が出てきます。
実を言うと、学習のやり方にそもそも選択肢があると思っていない人も結構います。勉強とはこういうものだと思い込んでいて、やり方を変える意識もない人の方が多い。でも、それじゃもったいない。勉強には色々なやり方があるのだと認識して、最初は他人のやり方でもいいので、自分で選んで取り組むと、学習中もちゃんとできているかを不断にセルフ・モニタリングすることになる。
こうして学習対象だけでなく自分自身にも眼差しを注ぐことで、メタ認知が鍛えられる。これは学習中にまずいことが起こっても、それに気づいて対処する能力です。加えて、別のやり方があるのではないか、何かを変える必要があるのではないかという動機付けも生まれてきます。
学習を自分で工夫できるようになると楽しくなりますよ。ちょっとした改善でもリターンが如実に変わるのが分かります。学び方をデザインすること、そして改良していくことは、学びの中でも喜びを得やすい機会です。これができると、持続的に自分の中で喜びを創り出すような回路ができてきます。ここまで来れば、胸を張って、自分の学びを自分でデザインし続ける独学者になったと言えると思います。
結局、何が自分を喜ばせるエサになるかは自分しかわからない。自分が喜んで続けていける学習は、自分でデザインするしかありません。1日は24時間しかない。その中で学習に時間を割くことは、簡単なことではありません。せっかく学習に費やしても、いつもうまくいくとは限らない。それでも、知への扉を開く知的ガチャを何度も回すためには、そうしたくなる仕組みを自分で整備する必要があります。
私は多分勉強が苦手で、自分でもできることをいろいろ探して、今のようなやり方にたどり着きました。これを「独学」だというのは、自分で自分に合わせてデザインして、その成功も失敗も自分が負うものだからです。
例えば私は飽きっぽくて、学ぶテーマがコロコロ変わります。そのため、例えば歴史をテーマに学習する仲間を募ったり、テーマ主体で集まったりする学習は難しい。独学なら、明日は全然違うものを学んでも、テーマを変えたあげく結局どれもものにならなくても、自由です。
主語を大きくすると、人間というのは本来的に学びが苦手なんですよ、きっと。だからこそ、学校は偉大な発明だと思っています。飽きっぽい人間に、できるだけ気をそらさせず、知的な財産を継承してもらうために必要な制度です。ただ全ての人が学校に適応できるかというとそうではない。
私は学校にあまり適応できなかった。例えば50分間という区切りでどんどん授業が変わるのが辛くて。気分がノっているから今日は数学を1日中やらせてほしいと思ってしまったり。
レディ・メイドの学びが合わなかった、でも知りたいことはたくさんあった、学ぶことをあきらめたくなかった。そんな中、自分に合わせて学びをデザインできる独学は救いでした。
小学生の頃、生物学者のおじいさんに出会いました。子供の頃って虫取りをしますよね。虫のことを知ろうとすると、それを捕食する魚や鳥という横の繋がりが見えてきて、それを探ることが生物学に繋がっているという、知の繋がりを彼は見せてくれた。面白いと思うことと学ぶことは別のものじゃないんだ、と教えてくれたんです。この出会いは私の学びに強い影響を与えたと思います。
こうした出会いやきっかけを、独学をやろうという酔狂な人は、みんな持っているんじゃないかと思います。彼らを学びに向かわせた、何らかのファーストインパクトがあるのではないかと。かっこよく言えば、知との出会いですね。それは、本の一節や一文かもしれないし、知を纏った人物かもしれません。それは個人的でその人にとって特別なもの、だから一般化するのは難しいですね。ただ、一般化できないけれど、このような出会いの可能性を高める方法はあるように思います。例えば、身の回りに一冊しか本がない環境と、図書館みたいに多種多様な書物がある環境とでは、後者の方が出会いの可能性は高まる。出会える人についても同じですね。ダイバーシティではないですが、確率論として多様な機会が複数あった方が出会いは起こりやすいと思います。
『独学大全』でも、私にとっての生物学者とのファーストインパクトのようなことが、一人でも多くの人に起こればいいなと思って、いろんな内容をいろんな表現や文体を使って盛り込みました。
学ぶことをどうしたらいいのか、自分みたいなのが学んでいいのかわからないと思っている人に届けたいですね。学ぶ技術や理論等、情報も提供していますが、根底は「あなたは学んでいいんだよ」ということを伝えたいと思って書いた本です。
自由になることです。古代ギリシアのイソクラテスは「教養とは、運命として与えられた生まれ育ちから自身を解放すること。」と言っています。彼は徳が生まれつきのものだと考えられていた時代に「いや、徳は学ぶことができる」のだと主張した。学ぶことで、生まれ育ちという制約から自由になれるんだと、言ったんです。
時代は変わって、我々を制約するものは生まれや育ちだけではないことが、今日ではイソクラテスの時代よりも明らかになっています。誰が明らかにしたのか。様々な知を重ねてきた人たちがです。彼らは私達の先輩であり、学ぶことはそうした先人の重ねた知的営為に我々も参加することです。学ぶことで可能性が広がる本質はそこにあります。
最初に学ぶことは変わることだ、と言いました。学ぶことは学び直すことでもあり、自然に無自覚に知ったこと、学んできた色々なことをもう一度点検して、自分が今まで知らずに持っていた信念などを見直すことを含んでいる。私達は、自分を作り直すためにも学ぶんです。私達を制約するものは外にあるだけでなく、私達の内側にもある。これまでに学んだことを点検して、自分の知を見直し、作り直す。こうして、もう一度自由になることを目指す衝動によって、私達は準備も機会も整わないのに学びの中へと飛び込んでいく。そうした企てを私達は「独学」と呼ぶのです。