IPA 情報処理推進機構

量子コンピューティングを正しく理解し、自社導入を推進する

量子コンピューティングの進展は、量子コンピューティングベンダだけが推し進めるものではない。ユーザとなる各企業も技術進展を捉え、自社ビジネスへの影響を見極めていくことが重要である。量子コンピューティングの導入検討を進めるためには、この新しいテクノロジーを理解、実践し、技術進展の程度に合わせて臨機応変に取り組んでいくことが求められる。先進的な企業の事例を踏まえ、量子コンピューティングの導入準備の方法を考える。

1. 予測不能な量子コンピューティングの競争環境

「VUCAの世界になった」と言われる。VUCAとは、Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の頭文字による造語で、社会やビジネス活動の今後が予測困難で、先が見通せないことを表す。新しいテクノロジーの台頭による新たなビジネスや新規参入者の登場もまたVUCAの世界の構成要素の一つである。
 量子コンピューティングは、このような新しいテクノロジーの一つであり、様々な計算への適用可能性が期待されている。例えば、金融、化学、ライフサイエンス(ヘルスケア)、交通、材料開発、防衛など多岐にわたる産業分野が適用先として挙げられている。これら産業分野の企業活動では、計算に長時間要している業務があるが、量子コンピューティングを導入すれば、計算速度が飛躍的に向上し、短時間で解けるようになったり、さらには、古典コンピューティングでは解けない計算を解けるようになったりすることが期待されている。これにより、コスト削減や業務改革、新たなビジネスの創出が実現できると目され、一部の企業において導入に向けた活動が始まっている。Ford(米)は、そのような先進的な企業の一つであり、自動車交通流の最適化に量子コンピューティングの適用を検討している[1]。多数の自動車が運行される状況下において、交通流の全体を最適化することで、エンジン性能の効率的維持管理、大気汚染の軽減、渋滞の解消、乗車体験の向上等の実現が期待されるが、車両1台ごとに経路や乗降場所が何通りも考えられ、全車両を対象とした最適化を行おうとするとその組合せが莫大な数となり、古典コンピューティングでは手に負えなくなる。同社は、この最適化に量子コンピューティングの高速計算性を適用可能と見て、その方法を探っている。
 量子コンピューティングという新しいテクノロジーは、交通渋滞のようにこれまでは解決が困難と考えられてきた事象を解決し、全く新しい未来を実現する可能性を秘める一方で、量子コンピューティングを導入せず将来にわたって古典コンピューティングに依存し続ける企業にとっては、提供する商品やサービスの陳腐化、商品開発の遅れ等を引き起こす要因ともなりかねない。
 現時点においては、量子コンピューティングを活用してビジネスの変革を成し遂げたという企業は知られていない。この根本的な原因は、現在知られている量子コンピュータのハードウェアに実問題を解くのに必要な計算規模が備わっていないことにある。しかし、ハードウェアが成熟するまで待っていればよいというわけではない。FordのCTOであるKen Washington氏は、量子コンピューティングは未成熟な技術と認識した上で「量子コンピューティングの技術進展がごく初期段階にあることは、非常に胸を躍らされる。つまり、この初期段階で注意を払い、取り組めば、技術が成熟するとき優位に立つことができる。」とし、アーリーアダプターとして今から参戦することの優位性を強調している[2]。
 量子コンピューティングベンダをはじめ世界中の研究機関が、ハードウェアの計算規模拡大に様々な素材レベルの研究から取り組んでいる。このため、量子コンピュータ開発への参入を突如として発表し、これまで業界を牽引してきたどのベンダよりも高性能な量子コンピュータのリリースを予定する企業が現れるなど、新規参入者を含めて性能改善に向けた動きは激しい状況にある。また、ハードウェアには、汎用のゲート方式量子コンピュータのほかにも、最適化に特化した量子アニーラと呼ばれるものが存在し、さらには、量子コンピューティングに着想を得た量子インスパイアード古典アルゴリズムという古典コンピューティングの手法など、異なるアプローチからの研究も進み、量子コンピューティングの応用ソフトウェア分野の研究開発も加速しつつある。  こうした研究開発の競争激化により、実用的な量子コンピュータがこれまで想定されていた時期よりも早く利用可能となる可能性がある。その際には、早期から量子コンピューティングに着目していた一部の先進的な企業でその導入が急速に進むこととなり、導入準備を疎かにしていた企業との格差が一気に広がるおそれがある。このような将来を見据え、他社に後れを取らないようにするためには、量子コンピューティングの著しい技術進展を捉え、その変化に対応していかなければならない。

2. 開発企業とのコラボレーションを通じた応用技術の習得

一般的に、VUCAの世界における不確実性への対応方法としては「情報に投資する」ことが挙げられている[3]。つまり、企業は、情報を収集し、量子コンピューティングの動向を理解することが導入検討の第一歩である。
 業務で解きたい問題を量子コンピュータで処理できる計算式に変換し、量子コンピューティングの適用可能性を追究するには、量子力学専門家等の研究者と業務ドメイン知識を有する研究者とのコラボレーションが必須であり、初期の活用先と想定される化学業界、金融業界でこうしたコラボレーションが始まっている。彼らは協力して、特定の計算を行うために必要となる量子コンピュータの性能を見積もったり、現在実現されている小規模な量子コンピュータでも活用できるように計算を工夫する方法を研究したりし、その成果を論文としてまとめ、研究コミュニティ内で共有している。つまり、最新動向を反映する彼らの研究成果が基本的な情報源であり、研究コミュニティとの協業を通じてその情報、知識を獲得することが有効である。この情報収集の方法として、以下の2つの方法を紹介する。
 方法① 自社人材に量子コンピューティングの応用技術を習得させる方法
 方法② 量子ソフトウェア企業とパートナーシップを結ぶ方法
 方法①は、企業が量子コンピューティングを活用できる人材を自社内に確保する方法である。この方法は、自社の関心事項に応じて集中的かつ日常的に情報収集できる点で優れる一方で、そのような人材の教育や採用、雇用維持には大きな投資が必要となる。量子コンピューティングの活用に対して準備を進めるには、解決したい事象を表す数理モデルの選択や修正を行うことのできる人材が必要となるが、これには業務ドメイン知識が必須である。したがって、ユーザ企業としては量子コンピューティングベンダとのコラボレーションをうまく活用し、企業の抱える実問題の解決に迫るために業務ドメイン知識を持つ人材に量子コンピューティングの応用技術を習得させる方法が有効であろう。取組の例として、「IBM Q Network」は、企業間の知見共有、コラボレーション促進を目的とするもので、IBMから提供されるツール、トレーニング、技術的サポート等を通じて参画企業は量子コンピューティングの手法を身に付けることができる。この成果は、参画企業同士による共著論文としてまとめられ、研究コミュニティに還元されている。また、化学スタートアップのOTI Lumionics(加)は、NPO団体Creative Destruction Lab(加)が行う量子コンピューティング専門のインキュベーションプログラムに参加し、自社の化学研究者に量子コンピューティングの応用技術を習得させ、新素材開発への活用を進めている。実際に、量子コンピューティングの知識を獲得した同社の化学研究者は、新素材開発の過程で最も時間を要しコストの掛かる化学シミュレーションを、量子コンピュータで処理できる形に変換する方法を考案、「Microsoft Azure Quantum」を使って実践し、シミュレーション精度の改善に成功している[4]。
 方法②は、研究者の教育や採用に大きな投資が難しい企業にとって有効であろう。量子ソフトウェア企業は、社内に量子研究者やドメインを理解した研究者を擁し、研究コミュニティに参画しているため、企業はドメインエンジニアの教育が軽減される上に量子ソフトウェア企業を介して研究コミュニティの成果を間接的に収集、享受することができる。例えば、ノヴァ・スコシア銀行(加)とモントリオール銀行(加)は、量子ソフトウェア企業Xanadu(加)と3者での共同プロジェクトを発足させ、金融商品の価格決定の計算に量子コンピューティングの適用を実践することで、その使い方や性能の理解に繋げている[5]。
 このようにユーザ企業、量子コンピューティングベンダ、量子ソフトウェア企業とのコラボレーションは、それぞれにベネフィットをもたらす。量子コンピューティングや機械学習を活用した創薬計算プラットフォームを提供する量子ソフトウェア企業のProteinQure(加)は、製薬企業のAstraZeneca(英)ともコラボレーションすることでソフトウェア開発を加速させている。量子ソフトウェア企業にとっても、優れたソフトウェアを開発するには、産業界や企業が真に解決したい課題と、企業内で既に行われている業務の全体像を理解する必要があり、産業界や企業とのコラボレーションが欠かせない。

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